~ Your sight, my delight ~ 2
どうやらまたあの季節がやってきたらしい、ってことが自分でも分かった。
何だかイライラして落ち着かない。外に出たい。でも最近の俺の様子を見たママさんが、また俺のことをこの庭の中に閉じ込めるようになった。
前の時と違うのは、健太郎が傍にいるということ。あの時は一人だったから時間も持て余したけれど、今回は少なくともヒマで死にそう、っていうのだけは免れそうだった。
でもそれもいつまでなのか分からない。他の雄犬と遊ぶのが駄目で健太郎となら許されているのは、多分、健太郎がまだ子犬だからだと思う。もう少しして健太郎が大人の犬になったなら、この時期には健太郎とも離されてしまうのかもしれなかった。
健太郎が大人になる頃。そんなに先の話じゃない。きっと、もうじきのことだろう。
それでも現時点ではまだ、健太郎はガキだった。俺の匂いがどんどん強くなってきても、「小太郎、やっぱりイイ匂いがするね」と纏わりついてくるだけの子供だ。だけど俺は本格的に発情してしまったら、どうしたって他の雄犬と遊びたくなる。それは健太郎では駄目だった。たとえ健太郎が大人の犬になっても、コイツだけは駄目だった。
「小太郎・・・。どこに行くの?」
昼間、ママさんに「この庭から出たいよ、外に出して」ってお願いしても、やっぱり聞いて貰えなかった。庭の中では鎖もつけずに歩き回っているし、犬小屋も自由に出入りは出来ているけれど、でも外に行くのは許して貰えない。
このままじゃ俺、おかしくなる。・・・そう思ったから、俺は実力行使に出ることにした。
この家と外の世界との境には垣根があるけれど、それには実は一箇所だけ壊れかけているところがある。以前にたまたまその場所を見つけて、少しずつ穴を広げて、何とか体を通せるくらいにしておいた。
「ちょっと散歩に出てくる。・・・すぐに帰ってくるから、お前は大人しくしとけよ」
「俺も連れてって!」
「そんなの駄目に決まってるだろ。子供は寝る時間なんだよ」
「もう子供じゃないよ!」
ママさんたちが寝静まった頃、俺は家を抜け出すことにした。
音を立てないように犬小屋を出て、垣根に作った穴から外に出ようと試みる。その時に健太郎から声を掛けられた。
健太郎も赤ん坊の時と違って、だいぶ眠りが浅くなってきている。見つからずに自由に出ていくのは難しくなるかもな、と思っていたら、案の定だ。なんて面倒くさい。俺は舌打ちした。
「お前はまだガキだよ。大人になったら連れていってやる」
「じゃあ大人って、いつなるの!?どうなったら大人って認めてくれるの!?」
「それが分かんねえから、子供だっつってんだろ。馬鹿だな、お前は」
精通もまだのガキが何言ってやがる、って思うけれど、さすがにそれは口にしない。今度は「それってどういう意味!?」って聞かれるに決まっているから。
「・・・小太郎。置いて行かないでよ」
「留守番してろ。いいか、くれぐれも騒いでママさんたちを起こしたりするなよ。勝手に抜け出しているなんてことがバレたら、後が大変だからな」
「嫌だよ。行かないでよ」
健太郎が泣きそうな顔をして俺に縋る。ちょっとは胸が痛むけれど、でも俺だってこの時期の本能に逆らうのは難しい。「置いてかないで」と繰り返す健太郎を残して、俺は穴を潜り抜けた。
月の明るい晩だった。裏の山はそれこそ俺にとっては庭みたいなものだ。慣れた山道を草を分けながら進む。ケモノミチと人間が呼ぶ道で、俺以外の犬や猫も使っている。その道をガサガサと葉擦れの音をたてながら登っていくと、やがて視界の開けた場所についた。
そこだけ生えていた筈の木が切り倒されて、俺たちがぐるぐると走って回れるくらいの空間が広がっている。上を見上げると、樹々の暗い影を丸く切り取るようにして、ぽっかりと夜空が覗いていた。
この広場を更に奥に進んでいくと今度は下りの道が続いていて、その先は隣の町に繋がっている。だけどそこまで行くことは滅多に無い。町には知らない犬の縄張りがあちこちにあって危険だし、車も多いからよっぽど退屈して遠くまで散歩したい時だけにしている。
今日は隣町まで下りる必要もない。俺は風の匂いを嗅いだ。さっきからすぐそこに他の犬がいることは気が付いていた。そいつは暗がりから出てきて、ゆっくりと俺の前に姿を現す。俺より一回り大きい体つきをした、黒い毛の犬。野良ではないようだった。月の光を浴びて、毛並みが波打つように輝いている。よく手入れされている証拠だ。
そいつは俺に近づいてきて、匂いを嗅ぎ始めた。俺も鼻を近づけてその雄の匂いを嗅いだ。嫌いじゃない、と思った。それにこの匂いには覚えがある。多分前回の時に、垣根の向こう側で俺を呼んでいたのはこいつだ。
この辺りはこの雄犬の縄張りでもあるんだろう。尚更健太郎を連れてくるのは無理だと知った。
「俺と、したいのか?」
「・・・”俺”って言うの?自分のこと?変わってんね」
黒い犬はこういうことに慣れているのかもしれなかった。落ち着いた低い声で笑う。
うん、声も嫌いじゃない。尻のあたりを熱心に嗅がれて、ああ、俺のことが欲しいんだな・・っていうのも分かる。
いいかな、こいつなら。そう思えるくらいには、体格も立派だし強そうだし、見た目もいい感じだった。
「ね、しよ」
「ん」
俺の顔に鼻をくっつけて求愛してくるから、いいよ、って返事をした。その途端に気が付いたんだ。風に乗って運ばれてきた匂いの中に、さっきまで無かった匂いが混じっていた。俺の良く知る匂い。健太郎だ。あいつが近くにいる。
俺が気が付いたのと同時に、黒犬も気が付いたようだった。たった今まで甘い顔をして俺を口説いていたのに、顔つきが変わって、纏う気配も危ないものになる。
どうして。まさかあいつ、俺が抜け出した穴を通って出てきた?俺の匂いを追って、ここまでやってきた ?
追ってきたのか、単に迷ってこっちに来たのか、どちらにせよ俺が取る行動はただ一つだ。
「 健太郎!逃げろッ!」
黒い犬を置き去りにして俺は走る。山の途中にいるだろう健太郎を迎えに行って、一刻も早く家に入らないといけない。
この場所はこの犬のテリトリーだ。俺なら許される。メスだから。だけど、健太郎は子供といっても、オスだ。しかも俺といるところを邪魔しにきたことになる。黒犬にとっては敵以外の何者でもない。
健太郎が捕まったら、酷い目に合わされる。人間がいる時のお散歩とは訳が違う。間違いなく健太郎は痛めつけられるだろう。容赦なく、徹底的に。
茂みを抜けて、土も落ち葉も後ろ脚で蹴り上げて必死で走る。思ったとおり健太郎はいた。俺の「逃げろ」という声は聞こえていた筈なのに、どうやらその場から動かないでいたらしい。
「馬鹿野郎ッ!早く走れ!家に向かえッ!」
怒鳴りつけると、ようやく我に返ったのか方向転換して走り始める。だけど後ろからはあの犬が追ってきていた。逃げ切れるか 。相手は俺よりも体格のいいオスだ。一方で健太郎はまだ小さくて、その分足も遅い。まともに考えて追い付かれない筈がない。
「健太郎、そのまま走れ!家に入って、小屋に入って待ってろ!絶対に出てくるなッ!」
そう言いつけて健太郎を走らせておいて、俺はわざと速度を落とした。それに気が付いたのか黒犬も合わせてペースを落としてくる。
ゆっくりとした駆け足から歩くスピードになって、それから完全に止まる。振り向くと2~3メートル先であいつも立ち止まって俺を見ていた。
「あのガキ、何?」
「・・・家に、帰したから。だから、あんなの気にしなくていい」
「何言ってんの?俺が追うって分かってて、逃がしただろ。どんな関係?兄弟じゃないよな?」
「・・・じゃないけど、弟みたいなモン。なあ・・・、もういいだろ?もう邪魔しに来ないよ。だから、さっきの続き、しよ・・?」
ここは家のすぐ傍だ。垣根を挟んですぐ隣にママさんたちが寝ている建物がある。俺が作った抜け穴はもう少し先だけど、ここで俺たちが騒げば、きっと家の中にいるママさんたちにも聴こえる筈だ。
俺は逡巡した。
このままこいつと交尾するのか、それともママさんたちを呼んだ方がいいのか、一か八かで逃げられるか賭けた方がいいのか。
さっきとは違って、俺にはもうこの犬を受け入れる気は失せていた。そりゃあそうだろう。健太郎がどうなるかと心配で仕方がなかったんだ。俺なんかどうなってもいいけど、健太郎だけは無事に帰さないといけないって、それが俺にできるのかって、本当に怖かった。
でももう大丈夫。今頃は多分、健太郎も小屋の中に入って閉じこもっている筈だ。だから後は俺。俺がどうやって家に帰るか。
その気は無くなったけれど、別にこいつがやりたいならしてもいい。元々そのつもりで外に出たんだし。それだけで俺も健太郎も怪我せずに帰れるなら、御の字ってもんだ。
だから、それっぽく誘ってみた。まだ健太郎への怒りが収まりきらないみたいだけど、でも俺が婀娜っぽく迫って見れば、俺への興味は失っていないのかノってきた。
「もう逃げるなよ」
「・・・うん」
あー。ここでヤッちゃったら健太郎にも聞こえちゃうのかあ・・・って、そう思うとちょっと憂鬱になった。それが嫌で、わざわざ山の上まで足を延ばしたのに。
でもここまで来たら、腹を括るしかない。要は声を出さなきゃいいんだ。そうしたらきっと健太郎には分からない。俺は大人しく黒犬を受け入れる体勢を取った。
後ろから覆い被さられて、身体が強張る。こんな筈じゃなかったなあ・・・なんてわざと悠長なことを考えていると、突然に鈍い音がして体が衝撃に揺れた。
「・・・健太郎っ!?」
大人の黒犬に体当たりをかましてきたのは、一回りも二回りも小さな子犬。
「ばっ・・、逃げろっつっただろ!?」
「ヤダッ!だって小太郎も嫌がってる!」
いやいやいやいやいや、お前、ほんとに何してんだよ!?せっかく俺が我が身を犠牲にしてでも丸く収めようってしてんのに、余計に黒犬怒らせてどうしようってんだよ!?
「いってえなあ・・・」
のっそりと起き上がる黒犬は、痛いと言いつつも全くダメージを受けた気配は無かった。対する健太郎は唸って威嚇しているけれど、やっぱり子犬が虚勢を張っているようにしか見えない。こんなの、最初っから勝負なんて決まっている。
それでも、襲い掛かる黒犬に対して健太郎は逃げなかった。ガブリと噛まれたって、叫び声も上げなかった。だから俺が呼んだ。「誰か来て!ママさん、パパさん、健太郎を助けて!」って。
騒ぎを聞きつけて起き出したママさんたちがやってくるまで、それほど時間はかからなかった。俺も加勢したから、健太郎はそこまで一方的にやられることもなく、怪我も最小限に留められたと思う。
2対1で闘うことは、ずるいとも思わなかった。だって子供相手に本気で喧嘩するあいつの方が大人げないって言えばそうなんだから。
「お父さん!健ちゃんが、大変・・・!」
姉ちゃんも兄ちゃんも、パパさんも一緒にやってきてくれた。俺たちのところに一番先に着いたのは兄ちゃんで、その時には黒犬はまだ健太郎の肩を噛んでいた。兄ちゃんがあいつを蹴って、健太郎から離してくれたんだ。
それからパパさんとママさん、懐中電灯をもった姉ちゃんが来て、人間の数が増えたとみたら黒犬は去っていった。捨て台詞も無かった。
俺の方は特に怪我もなかったけれど、ママさんに抱き起こされた健太郎は肩と腹を怪我したようだった。懐中電灯で照らされた健太郎の白い体に、赤い血が点々と飛んでいた。
「健太郎、怪我してる!病院、病院に連れていかなくちゃ!」
姉ちゃんが青い顔をして健太郎の傷を調べている。兄ちゃんは黒犬が去った方を見に行って、「もう大丈夫だ。戻ってこないみたいだよ」とみんなに教えてくれた。
俺はその様子を呆然と見ていた。どうしてこんなことになったのか、考えるまでも無かった。俺が家を抜けだして、好き勝手やったからだ。その結果、こうして健太郎を危険な目に合わせた。
なのに健太郎は痛いとも辛いとも泣きごとを漏らさず、俺のことを詰りもしない。その代わりに「小太郎。小太郎、こっち来てよ。お願い」と俺を呼ぶ。
俺は重い足を引きずるようにして健太郎の傍に近寄っていった。背伸びをしてママさんの腕の中にいる健太郎の顔を覗き込む。そうするとママさんが俺に気が付いてしゃがんでくれた。
チビのくせして強くて優しい健太郎。俺のことを責めてくれたらいいのに。文句の一つでも言ってくれた方が気が楽になる。俺のことを嫌ってもいいよ。
そう思っているのに、健太郎の顔は俺と目を合わせた途端にクシャリと歪んで、今にも泣きそうなものに変わった。
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